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矢部 宏治著 日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか

「戦争になったら、日本軍は米軍の指揮下に入る」という「統一指揮権密約」が1952年7月と1954年2月当時の吉田首相が口頭で結ばれていた。

 1953年9月の日米合同委員会では、「日本の当局は所在地のいかんを問わず合衆国軍隊の財産について、捜査、差し押さえまたは、検証をおこなう権利を行使しない」と合意している。2004年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故・1977年の横浜

緑区の住宅街へのファントム偵察機の墜落事故は、米軍に対して治外法権状態に。 

 1972年の沖縄返還交渉を担当したアメリカ大使館のスナイダー駐日大使も極めて異常なシステムと報告している日米合同委員会は、日本の超エリート官僚が、アメリカの外務官僚や大使館員ではなく、在日米軍のエリート軍人と直接協議するところになっている。

横田空域に代表される日本の事実上の占領継続状態が、決して「アメリカの陰謀」などによるものではなく、「戦後日本という巨大な利権を手放したくないアメリカの軍部」と「それに全面的に服従する日本の官僚組織」が原因である。

 1950年9月トルーマン大統領はプロジェクトの基本原則として「日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利を獲得する」、という方針を決定しダレスが遂行した。その後、ダレスはCIA長官となった弟とともに気に食わない外国政府を転覆させ、正当な選挙で選ばれた政治指導者を排除するといった違法行為にまで手を染めていく。

 砂川裁判・最高裁判決は、翌年に予定されていた安保改定に影響が出ることマッカーサー駐日大使が、激しい政治工作を展開した結果であった。

 以後、日本政府がいくら重大な違憲行為を行っても、国民が裁判によりそれをストップさせることが不可能になり、日本国憲法は事実上、その機能を停止してしまうことになった。